昭和42年 4月22日   朝の御理解
                            「 入力者 千鶴子 」

 良くいわれ 良く( ? )ございますけれども 椛目に御縁を頂いて 現在こうして、合楽に 皆おかげを蒙って居る訳でございますが とにかくここにおかげを頂くと あのう何か え~ここの先生を中心に え~内々のものとゆうか そういうこんにちがある、とこういわれてるですね ま、親戚同士のものが集まっておるというか いわばほんとにそのう親子が、あ~集まっておるというか 違和感がない訳なんですね ですからここの不陰気の中にひたっておるとこうほんとに有難くてから こう帰りたくないような感じがいたしますとゆうような事を良く聞くんです

 それは、結局どうゆうことからそうゆうことなのかというと まあ 「 類は類をもって集まる 」と申しますように わたくしという中心 それにやはりおんなじ系統のおう~人たちとゆうか おんなじめぐりを (ー 声が小さくて 聞こえないー5分40秒後 ) 一緒に溶け込んでいくとゆうか (?)そういう心が( ? )いわいる元気な心 勇猛心同時に和賀心 和らぎよろこぶ心 ( ? )30秒後 そのことを神様にお願いさせて頂いて わたくしは思うんですけれども そういう時に 平穏無事(?)なくて もう私どもの信心はどこまでもどのようなことでもです

 それをおう合掌して受けてたとうという信心 ね 例えば難儀なら難儀というものがです、もう 降って湧いたように 例えば起こって参りましてもです、ねっ それと調和していくということの それを受けて行こうとする わたくしはこのう 努力というか 勇猛心が必要なんです そのことをお願いさせて頂いてからこう、自動車に乗らしてもらいました、前に、い~まさきさんの車が行き、後ろに杉山さんの車に私とまさきさんが乗っ取りました。したら神様が私に教えて下さるに、前に乗る自動車です

 (?)私は例えばどのような事があるんなら、あ~その危険信号を頂いて、なら難儀な問題を起こってもです それを受けてたとうという私の どうぞそれから受けさしてください、と どうぞ おうまあ普通でいうならば大難がかかってくるような事でも、小難に小難がかかってくるような事でも、無難にと、こう普通ゆうのですけれども 大難にかかってくる というものならですね、それを受けよう、と難はみかげとおっしゃる、難あって喜べとおっしゃるんですから、そういうひとつの勇猛心というものがですね 

 やっぱ必要なんです そしたらそのう まさきさんの自動車の番号は あ~4901という番号なんです、ね 490しーやら くーやらないということあーおかげ頂いたなと私思うた、成る程、おう~ あちらこちら回らして頂きましたけれども、もうそれこそ おいたものをとるようなというか も全然計画のないその旅行でしたけれども( ? )御修行を受けているんだなあと これだから親先生と一緒に例えばこのう

 旅行でもするということが 楽しいというのと有難いものだということが感じられるとこうゆう訳なんですけれど そうゆうおかげをまあ終始、頂いて帰ってまいりましたんですけれど 丁度、昨日の朝、あ~嬉野の、「シンセイカク」という、神の泉のと書いてある あ~まっ 一流のホテルでしたが え~ そこで私 朝方、御夢を頂いたんですね、それが、そのう私と正義さんが自動車に乗っとるです

 つうと いきよったところが、そのう おう向こう機関車がやってくるんですね、もう目の前に機関車がやってきてるんですね、そしてこうん人が、「生神金光大神様ー」つてからすでに、もうこちらの方からぶつかっている感じなんです、そしたらですね 夢で、まっその 表現がまたおもしろいですけれども、その、そのう進むべき進行してきておったその機関車がですね、ぐるーと回ってトンネルの中さん、入っててしまったとゆう、お知らせをいただきました。

 ですから、いかにですね そのう受けて立とうという心の中にはですね、もうやはり、あのう基準もなくって事を申しますがね、それからどういう難儀であっても、そのう、どうゆうもの難儀であっても それが、まわるようにして いくようなものが、そこに生まれてくるんですね。 わたくしどもの場合いはそういう事ばっかりではない、やはり、難をまともから 受けなければならないようなこともあるけれどもです そういうような場合は、これだけ信心するのに 「どうして」というな 言うた時には、もう、おしまいです。

 ね その、難儀を受けて たたしてもらおうという、そこから、必ず、難儀を境に 一代比例が頂けれる 大きなおかげが受けられると言う事だけは、もっも 間違いのない 椛目のならっ この十何年間のあゆみを見ても、そのようなあ~事が言えれるとこうおもうんです。ね それこそ 津波どん出るような事が、あっても、それを「合掌」して受けていこうという事になれば、それを境にいつの間にかおかげを頂いておるとゆうこと ね
今日は私は その大調和という心 「大調和」という事はどういうことかというと ならその 機関車んでもですね、

 こちらがぶつかっても行こうというやら わざとぶつかっていくじゃないですよね、けども、あっというた時には、もう、そこに機関車は来とるんだという時にです、「生神金光大神様」がとなえれる その心なんです。ね そこにはやはり、どんな大難でも、それが、回り道して向こういくようなですね、おかげが受けられるということです。大調和ということはです ね もう、ほんとに ゆうならば、そのお~これが、まともに正銘衝突したら いわば、命がないというような事柄であってもです

 その(?)あたくしは調和する心だとこう思う とゆうことはその和賀心だとこう思う 和らぎの心 とだと私は思う ね どうゆう虫の好かん人がそばにおりましてもです、こちらが、大調和の心を持っておったら、向こうの人までも一緒に ここん中に飛び込んで来るでしょう。わたくしもそこはなかなかできません。いやなものはいや 嫌いなのは嫌いなんですけれども、それでは世間が狭いです、好きな者ばかりのつどいであればいいけども、それだけのものの世界しかないです。

 ね ですからあたくしどもが、そこんところを願っている 広く大きく私どものいわいる極楽の世界というか、有難い世界というものを、広めて行こうと思うならばです どうゆういやなこと、どうゆう嫌な人でもです、調和していけれる心、ね それに溶け込んでいけれるとゆう心、又は向こうから、飛び込んで来る おかげを頂かしてもらうおかげ それを私は本当の大調和心だとこう思う。ね カアキイロと黒は、もう、ピッタリ調和するものです。ね 赤と白も、調和するです。
ね、(?)菊栄会の人達なんかは、もう、ほんとにもあらゆるですね、そのひとつの宗教
その合楽でおかげをいただいておる焦点とゆうものは、みんな、同じ、焦点を持ってるんです。 
   
  昨日、私、帰らして頂いて神様に御礼を、申させていただきました。 結局、う~まる二日間に、わたってからのことでございますから、もう~大変な散在であったろうと、思います。 ねっ もう~ほんとに、旅館なんかでも、最高のお~事でございますし、おみやげなんかでも、お~ それこそ、見事なもの、釜元をめぐりましたから、もう 唐津焼き、それから、ん~ 熊本のなんとかという窯元、ね 沢山のあ~ ( ? )来とります。ですから、銘々が、出しおうたお金だけでも、大変な、金額であろうと、こう思います。ね

 ですから、ほんとに わたくし一人の為に こうゆう散在をさせてから、神様に、なんか、お詫びせねば、おられんような気持ちにたって、それでお詫びさせていただきよりましたらですね、そこにあのう、東脇殿に、つつじが 入れてございますでしょう。あの、下に、こうお~ 台が、敷いてあるですね、あの、木の節のようなもので、台が作ってある ( ? )ね ああゆうようにですね、丁度、大ーきな木をですね、その節のあるところを、( ? )落としていっておるところを、いただくんですね、こういう例えば、なら大きな、ましかくい、柱になるでしょう。

 木を落として行ったら ね 今菊栄会が、一人ひとりが、願っていることはです。 もう、我こそ 「合楽の柱になろう」という、願いをもって、ひとつの、集まりなんです。ね いわいる将来は、合楽の願いに立とうというねがいの、集いなんです。 ね 親先生中心にして、どういうような問題があっても、「あたくしどもが おりますから大丈夫です」とこう 言えれるだけの 信心をいただいて行こうと ゆう人達の集いなんです。 それが、(?)たっていかんですからね、やはり、柱に、ほんとの柱になる為には、やはり、そこをわき落としていかねばならん ね それは、そういう働きをする為の、それであった。と、あたしが、楽をするためではなくてです、神様、そうゆう世のその願いを願いとして、聞きとめて下さる為にです、ね ようは 必要でないものは、切り取って行く為の、働きであると言う事なんです.

 ( ? )頂いて 勿論、あの人達には 申しゃしませんでしたけれども そういう働きの中に、おかげを頂いてきたんだなぁて、事をまあ思いました. 
 そういう意味合いでです、同じ所に 焦点があるのですから(?)いわいる、おんなじむらさきの色なら、おんなじむらさきの、色ばっかりの人と 集まっているんですから、も、どれやら、これやら解からん位にある.ね ですからそれも調和心なんですけれど、それでは、もう、全然、似ても似つかない 例えば(?)人であろうが、事柄であろうがです. ね それが一つの事のように、いわば あ~調和していく 手立てというか 道というは わたくしは 宗教から生まれてくるところの、いわいる 大調和心だと こう思う.

 それは、災難だ、難儀だというような事柄でもです.とでも、調和する心なんです.
ねっ そういうわたしゃ大調和の心を お~求める、大調和の心を目指しての信心でなかなければならない 「好かんもんな好かん.いやなものはいやだ」というたら も、結局好かんもんの人が、おるだけで 、じゅぶんが不愉快な思いをいうならばしなければ ならない、それでは、余りにも、小さい信心だと言わなきゃならないですね.
                                   どうぞ.       、